2012年11月29日木曜日

なぜ中国駐在1年内に「心の危機」が起きるのか

日本企業の相次ぐ進出で2010年、上海の在留邦人が5万人を突破。中国全土ではその3倍近い日本人が在住する。こうした中、現地では駐在員のメンタルクライシスが問題になっている。
 
本社の無理解を象徴する造語「OKY」
 
経済成長を続ける中国市場に駐在員を送り出す日本企業の期待の高さと、社会のフォーマットが基本的に日本とは異なる中国での現地ビジネスの内情との間には、大きなギャップがある。そのため起こる本社との板ばさみに、中国人社員とのコミュニケーション不全が加わる。商観念や慣行も違う。
 
駐在員の多くは、変化の激しい中国社会での仕事と生活がもたらす数々のストレスやプレッシャーの中で、不眠症や自律神経失調症に悩まされ、なかには適応障害や急性ストレス症候群、うつ病、最悪のケースでは自殺に至る例も毎年のように報告されている。
 
中国で「公寓」と呼ばれるサービスマンションに暮らす駐在員家族も、社会規範や衛生状況の異なる中国社会が怖くて街に出られないといった不安神経症や、「日本人ムラ」といわれる「公寓」の閉鎖性からくる対人ストレスがメンタル不調を引き起こすケースも見られるようだ。ただでさえ心労の多い駐在員にとって帯同家族のメンタルヘルスは気の重い問題といえるだろう。
 
北京VISTAクリニック心療内科の徐沐群医師は、日本人が中国でメンタルクライシスに陥る一般的なパターンを次のように説明する。
 
「発症は駐在して4カ月から半年後が多い。最初の数カ月は中国社会に新鮮な驚きをおぼえ、興奮し、緊張しているが、生活に慣れていくうちに、だんだん中国社会のマイナス面が見えてきて、中国人社員とのコミュニケーションの取り方に悩み始める。最初は気にならなかった食や水、気候、住環境の違いもストレスとなり、気分がイライラし、不眠や下痢が続くといった身体上の変化が起きてくる。たいていの人は1年を過ぎると安定してくるが、適応障害や急性ストレス症候群になるケースの8割は駐在1年以内だ」
 
こうした現地事情を理解するうえで注目されるのが、在留邦人向け生活情報誌「Whenever天津」2010年11月号が特集した「駐在員のメンタルヘルス座談会」だ。持田吉彦編集長は企画の趣旨を次のように語る。
 
「日本では、海外駐在員は住環境に恵まれ、豪遊していると思われがち。日本から出張者が来れば、アテンドと称してカラオケ接待が行われる。でも、実際には日本での想像を超えた事態が起きている。出席者の方々は、中国での労苦やストレスなど、心の叫びを分かち合いたかったのではないか」
 
4時間に及んだ座談会の詳細すべてを紹介できないが、そこで吐露されるのは、現地駐在員のメンタル不調の実態や、中国ビジネスに取り組むうえでのプレッシャーや当惑ぶりである。
 
「最近、夜中に目が覚める」「逃げ場がない。相談相手がいないのがつらい」「独り言を言い出したら危ない」「日本で当たり前のことが中国ではそうでない」「本社が確実に右だと決定したことでも、中国では左が正しいことがある」「コンプライアンスも、この国では意味をなさない」「品質管理の意味が現地社員に伝わらない」。
 
しかし、これを愚痴と片付けるのはあんまりだ。「事情を知らない本社から、なぜ中国で数字が伸びないんだと言われるのがきつい」「本社の無理解は永遠のテーマ」「この感覚は駐在しないとわからないだろう」と半ば諦めながらも、彼らは日本の感覚からすれば不条理ともいえる現場を引き受けているからだ。中国駐在者の間でささやかれている「OKY」(おまえが来てやれ)、「敵は本国にあり」ほど、彼らにとって実感のこもった言葉はないのだろう。
 
深刻な「いきなり管理職」問題とは
 
関係者の話によると、業種にもよるが、10人規模の事業所で1人か2人がメンタル不調に陥るケースが見られるという。中国の赴任先各地で日本人の自殺者が出ていることは、もはや駐在員の間では共通認識となっている。
そこまで彼らに重い負担を強いていても、本社側がその実情を把握するのは難しい。「赴任してみなければ絶対わからない」という中国社会の高ストレス度の背景には何があるのか。
 
 
03年から06年まで外務省医務官として北京に在勤した勝田吉彰近畿医療福祉大学教授は「日本社会に適応しやすい人間ほど、メンタルでつまずきやすい」という。そして中国特有のストレス要因として以下の3つを挙げる。

(1)気候・風土・環境に起因するもの──乾燥した気候、黄砂、大気汚染、社会インフラの遅れ、食の不安。
(2)中国社会に起因するもの──人治主義によるビジネスルール上の弊害、接待に不可欠な宴会の多さ、地域格差、治安(盗難やハニートラップなど)。
(3)日本社会に起因するもの──日本人気質(完璧志向、減点主義、ムラ社会)、「いきなり管理職」問題。

このうち日本社会から持ち込まれた要因として、真面目で几帳面な日本人気質が中国社会に合わないのは誰もが指摘するところ。ここでいう「いきなり管理職」問題とは、他国に比べ駐在初級者が多く、日本で部下を持ったことのない若手社員をいきなり赴任させ、心労のためメンタル不調を起こすこと。誰を赴任させるかは、中国ビジネスの成否の鍵を握るだけに、本来慎重になるべきだが、経営陣の不用意な判断で不幸な結果に至るケースは多い。

また、天津インターナショナルSOSクリニックの矢地孝医師は、日本人が中国でつまずきやすい理由として次のような指摘をする。
「経済成長によって都市の景観や人々の服装など、見かけは日本とさほど変わらなくなったことで、対中国社会、中国人への警戒のガードを下げてしまいがち。だから無防備のままボディブローを食らってしまう。欧米人が自分たちと異なるふるまいをしても気にしないくせに、同じ顔をした中国人がやると許せず、ストレスになる」
高層ビルが林立する都市の映像を見る限り、中国は発展していると思いがちだが、社会内部の矛盾や実情は別であり、そこに油断が生まれやすいのだ。

もっとも、中国に行けば誰もがメンタル不調に陥るわけではないだろう。海外在住日本人向けのメンタルケアサポートを行うMD.ネット代表取締役社長で精神科医の佐野秀典氏は、海外業務への適応力や発症リスクを5年にわたって指導し続けてきた。佐野氏は独自の「ストレス─脆弱性モデル」として次のようなメンタル不調発症のf(x)関数を挙げる。

メンタル不調発症のf(x)=(家族歴×既往歴×性格×業務ストレッサー×未知の因子)÷知的葛藤解決力

脆弱性とは、精神疾患へのかかりやすさや再発のしやすさ、ストレスへの対応力をいう。そしてメンタル不調の発症は、「家族歴」(家族の病歴)や「既往歴」(本人の過去の病歴)、「性格」(責任感が強い、頑固など)に、「業務ストレッサー」(業務上のストレス要因)と「未知の因子」(反日デモや日中関係の悪化に伴う不安など)とが掛け合わされたバランスによる。分母の本人固有の「知的葛藤解決力」が大きく、通常であればストレスに人一倍タフな対応ができる人でも、何かの要因で分子が重くなれば発症の可能性があるわけだ。

同社ではクライアント企業の駐在予定者にいくつかの質問項目を用意した「渡航前心理チェック」を行っているが、メンタル不調発症リスクの高いとされる「脆弱性が高い」層は全体の28%に上る。これでは高ストレス社会の中国で発症率が高まるのは必然だ。多いのはうつ病や統合失調症で、日本の発症率のざっと3倍という。
「近年、日本企業は内需縮小などの経済苦境から中国進出を図ろうとしているが、中国市場に対応した人材づくり、仕組みづくりをしてこなかった。そのつけが駐在員のメンタルクライシスを生み出している」と佐野医師は言う。
 
2大葛藤要因は債権回収とキックバック
 
今日、中国市場で求められているのは何かというと、柔軟性と行動力のある人材だ。成熟した日本市場とは違い、中国市場では常に臨機応変な対応と決断が迫られる。「中国社会は変化が速く、過去の駐在経験者のアドバイスが通じない。場合によってはそれが混乱を生むことさえある」(現地駐在員)。
 
 
では、中国駐在員のメンタル対策はどうあるべきなのだろう。
「つまるところ、駐在員のメンタル不調は業務上の葛藤にある。その要因をいかに軽減するかが要諦だ」と佐野医師は語る。その「業務上の葛藤」について、中国進出企業へのビジネスサポートや赴任前研修を行うA-commerceの秋葉良和代表取締役は「中国での業務上の2大葛藤は、債権回収とキックバックの常態化だ。それにどう対処するかに尽きる」と指摘する。
日本ではおよそ信じられない話だが、中国ローカル企業では取引先への支払いを期日よりどれだけ遅らせられるかで営業マンが評価されるという慣行がまかり通っているため、債権回収が悩みの種となっている。また多くの中国人営業マンが個人裁量で当然のように営業先からキックバックを得ており、こうした「ありえない」慣行の処理に日本人駐在員は苦悩してきた。
だが、「こうしたことも、中国が世界の工場だった時代から市場へと変わった今日、誰もが向き合わなければならない問題」と秋葉氏は言う。メンタル対策の一環として、中国の商慣行や生活習慣を含めた赴任前研修が必要とされているのはそのためだ。
ここ数年、駐在員へのメンタルサポートを行う企業も増えている。前述のMD.ネットはクライアント企業への次のようなケアサポートを行っている。
(1)渡航前アセスメント──「渡航前心理チェック」を通して海外適応性、身体症状、ストレス耐性、その他精神障害発症リスク、うつ病発症リスクなどを総合的に見て出向リスクを確認。
(2)安全配慮義務──企業の産業医やメンタルヘルス担当者への通知、支援。
(3)フォローアップ──駐在員とその家族への定期的なメール、メンタルヘルスアセスメントの実施。
しかし、こうした動きは国内でのメンタル対策と連動していてこそ意味がある。企業の健康管理業務を代行するメディカルトラストでは、各企業が行う健康診断と事後指導を、ウェブ会議システムを利用して中国の事業所で働く赴任者にも受けられる仕組みづくりに取り組んでいる。

1996年に判決のあった過労死自殺に対する破格な労災補償、いわゆる「電通事件」以降、日本企業のメンタルヘルスの認知度が高まる中、同社では、労働契約法の定める安全配慮義務に則った契約医師による過重労働者への面接・指導システムを構築してきた。とりわけ大企業に比べて対策の遅れがちな小規模事務所への「全国医師面接システム」に力を入れていた。
その狙いについて佐藤典久取締役事業部長は、「小規模事務所があるのは国内だけではない。急速に進む日本企業の海外展開で、実は海外に広がっていた」と言う。さらに、佐藤氏は「駐在員のメンタルケアは、本社の産業医と現地提携医療機関が協力して行わなければ十分な効果がない」と指摘する。メンタル不調者の帰任といったデリケートな問題は、本社の産業医による事態の把握が欠かせないためだ。

中国駐在員のメンタル対策には、精神医学だけでなく、経営状況についての洞察が求められる。中国進出の意義はどこにあるのか。経営戦略が明確に定まらないままの進出が、駐在員の業務上の葛藤を増大させてきた面もあるからだ。こうした取り組みはまだ始まったばかりであるが、「駐在員のメンタル不調は経営リスク」という言葉を、改めて肝に銘じなければならないだろう。
 
リソース:プレジデント

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